瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その20 本島(続)~

(3)笠島伝統的建造物群保存地区

本島港から笠島地区までをぶらりと徒歩で散策しました。コミュニティバスの便数が少ないのが一因ですが、秋の好天に恵まれて、他の瀬戸芸祭鑑賞者など道づれが少なからずいたことが気楽な散策となったものです。マップをみて、本島港から笠島地区まで2.2キロメートルを歩きました。

本島中学校、本島小学校と過ぎて、ルート沿いに点在する作品を鑑賞できました。山根という地区から甲生口を進んでいくと、瀬戸内の美しい景観が飛び込んできます。新在家海岸からは瀬戸大橋が手に取るような近さにあります。瀬戸内の青と秋空の澄み切った青を瀬戸大橋が区切っています。瀬戸大橋の架橋から25年、いまや瀬戸内海の景色としてすっかり溶け込んでいるようです。

新在家海岸から坂を少し登って、少し下ったところが笠島地区です。伝統的建築物の甍(いらか)と路地が目に入ります。来島者はまばらでした。保存地区は静まり返っており、住民の方の姿は見かけません。

ネットから笠島地区の概要を見てみましょう。塩飽諸島の中心地である本島の笠島は戦国時代までは塩飽水軍の本拠、江戸時代には水運の要所として栄え、廻船問屋を中心に町並みが形成された。江戸時代初期まで繁栄していたが同業者の乱立により次第に衰え、1720年代に幕府からの命で廻船問屋と船舶を大阪の廻船業者に譲ることになる。その後笠島の人々は船舶建造の技術を生かし、家の大工「塩飽大工」として日本各地で活躍した。彼ら塩飽大工は、年に数回笠島に戻る度に家屋を手入れした。そのため江戸時代の町並みがほぼ完全な形で保たれている、とありました。

1985年には重要伝統的建造物群保存地区として選定され、家屋の修復等保全が進んでいます。町並みは廻船問屋など豪商の屋敷や町屋などから成り、小さな町ながらも道を鍵型につけるなど防衛的な配慮もなされているようです。3軒の屋敷が一般に公開され見学することができます。笠島まち並保存センターの看板が見えましたので、静粛に中を覗いてみました。そこは真木(さなぎ)邸宅で、塩飽諸島を統治する年寄を務めた家柄のとおり、ナマコ壁の土蔵が偉容を誇っています。

邸宅内を拝見しました。家柄にふさわしく、江戸期の興隆を物語る歴史的調度品や古文書、立派な墨絵の屏風、中庭タタキはカマバと大釜、堅固な石で作られた深井戸が存在感を増しています。さらに内土蔵がふたつ、重要な扉が威厳的です。

真向かいに「真木邸」の表札が見えました。ここは、ふれあいの館として自由に見学できます。表札の真木邸は、「まき邸」と読み、まち並保存センターの「さなぎ邸」とは新家・本家の関係だそうです。新家の「まき邸」は、かつて神戸(大阪?)で財を成していた頃に、通称「まき」邸と呼ばれていました。それがそのまま「まき邸」として残ったものです。典型的な田の字型の四間取りが確認できます。真木(さなぎ)邸内を案内していただいた当主(?)によりますと、最近は笠島地区も空き家が多くなり、建物の維持管理に苦労しているとのことでした。

(つづく)

田村彰紀/月報361号(2014年8月号)

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その19 本島~

本島は塩飽水軍の本拠地で、幕末には塩飽全島を統率していた塩飽勤番所があることで歴史的価値が認められています。瀬戸内海の要衝の地を占め、「秀吉以来、自治権を安堵(あんど)されていた人名(にんみょう)制度の中心島で、人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、江戸時代は天領として明治維新まで人名の自治が続いた」とのネット説明があります。

(1)本島・牛島

本島の人口は平成25年10月時点で446人です。平成20年10月には627人でしたから5年間で181人の減少が見られます。丸亀港から本島への渡船は「牛島」を経由します。牛島は人口わずか12人です。牛島の存在は、今回の芸術祭を機会に知ることになりました。渡船が寄港するといっても、専用の岸壁はなくその方法は舳先(へさき)をコンクリート堤防の階段設備に着岸させるものです。本島港は塩飽諸島の中心島だけに立派な埠頭が整っています。待合所を覗いたりしていると、「児島行きに乗船の方にお知らせします」のアナウンスがありました。瀬戸芸祭の期間だけのようですが、岡山・児島港への船便も確保していました。

(2)作品鑑賞

作品105「Vertrek「出航」」は、本島港に設置されている咸臨丸渡米150周年記念「顕彰碑」と並ぶように設置されています。幕末の万延元(1860)年、日米修好条約批准のため独力で太平洋を横断し渡米した咸臨丸の水夫・火夫の大半は塩飽出身者が占めていました。作者はこの点に共感を覚えて、この場所に作品を制作したようです。

作者の石井章さんと立ち話をすることができました。この「出航」作品はこのまま常設展示するようです。管理やメンテナンスについて、「いつでも修復などに来ますよ」、「いま香川県に在住していますから…」と心強いお話でした。さらに、時間を経るにつれて、この鉄骨オブジェの色彩などの変化が楽しみだといいます。

また、伝統的な芸術作品といわれる作者は、誰かに師事することが常ですが、現代アートはどうかと質問をぶつけました。これまでの伝統的芸術には、例えば絵画、彫刻、陶芸など師事するという場合が多いです。現代アートでは、たしかに師事するという明確な常態は少ないかもしれませんが、かといって全く師事していないとはいえないのではないかとの返答でした。

作品110「つなぐ」は、奇妙な作品でした。廃寺となっているらしい惣光寺の境内をまるまる使っての作品でした。山門から本堂までアーチ形の木橋が架けられていますが、お寺という場所に違和感があります。そのうえ、境内のあちこちに赤い大小のバルーンが散らばっています。なぜ赤いバルーンなのかは理解できません。ただ、興味深かったのは、寺の鐘楼に梵鐘の代わりに吊るされているひときわ大きな赤いバルーンです。この発想には感動しました。

(つづく)

田村彰紀/月報360号(2014年7月号)

 

■2015年2月『住民と自治』&香川自治研「月報」をお届けします

■『住民と自治』の主な記事

●特集Ⅰ●無業わかもの「ひとり」の世界

  • 若者「ひとり」の実態と課題 関水徹平
  • 働きづらさに悩む若年無業女性“ガールズ”支援の現場から 植野ルナ
  • 遺品整理の現場から見える、若者の「ひとり」化 吉田太一

●特集Ⅱ●「教育改革」と政治をかたる

  • インタビュー和歌山大学学長
    どうなる大学、教育委員会――「教育改革」を切り拓く精神 山本健慈
  • 政治と教育の間―教育委員会の役割― 神山正弘
  • 教育委員会はどう変わるのか~新教育委員会制度の特徴と課題~ 朝岡幸彦
  • 教育の自治を自ら壊す新制度 岡庭一雄
  • 定型化と枠組みに対峙するために 手島勇平
  • 子どもの教育を支える大人の自治の力を~国立市の教育委員の経験から~ 中村雅子

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■「月報」の記事

◎地方創生と地方消滅の議論(上) 田村彰紀

◎『住民と自治』2月号のここを読む~財政分析パワーアップ

◎いいかげん地域学(その11 幻の島を追う5) 佐藤孝治

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その18~

(4)作品鑑賞(続き)

作品133「瀬戸内海底探査船美術館プロジェクト」は、瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸(おとといまる)」がその内のひとつでした。粟島海員学校のちょうど正面に停留されています。3年前からプロジェクトがはじまったようで、水中考古学研究所や企業などが手を組んで瀬戸内の海底から発見、引き揚げた物の数々は粟島海員学校内の教室に展示されています。

船内見学券が別に用意されており、粟島海員学校の受付でいただけます。よくよく考えてみると、このプロジェクトは特別の「美術館」として存在するようです。船内見学券を提示すると、「海底探査船美術館OTOTOI丸開館記念チケット」が交付されて、船内の「ナウマン象の化石展」が鑑賞できます。つまり、ナウマン象化石資料は、特別企画展として探査船美術館で展示され、それ以外は粟島海員学校の教室で展示されているというものです。

すっかりOTOTOI丸そのものが現代アート作品だと思っていました。ペインティングされた探査船の外観が現代アートの作品であり、船内も美術館展示物のようです。

作品133「粟島製塩所」は、瀬戸内海の海水を霧状の散布するミストルームです。粟島海員学校の教室のなかに、透明なビニールで大きなドームが出現しており、その中心に枝振りがよい竹木を1本立てています。そこに外部から取り込んだ海水が降り注ぎ、塩の結晶を彫刻作品化する試みのようです。現代アートの広がりは限りがありません。

(5)瀬戸芸祭の魅力と地域振興

春会期には沙弥島、小豆島、直島などを巡ってきて、秋会期のはじめにあたり、ふたたび瀬戸芸祭の魅力について考えます。瀬戸芸祭の特徴のひとつは、何といっても瀬戸内の浮かぶ離島が会場となっていることです。ふたつ目は、現代アートといっても多彩な作品が楽しめたりあるいは悩ましく感じたりすることのようです。これには現代アートとは何かが、ますます分からなくなって迷路をさまようことにもなりかねません。それでも遠方からの鑑賞者が多いことに驚き、現代アートが惹きつけるものは何かを探りたくなります。

では、いくつか瀬戸芸祭の評価を試みてみましょう。まずは、瀬戸内の離島が会場というロケーションに魅力がありそうです。県内外を問わず、穏やかで多島美を誇る瀬戸の海を眺めながらの船上の人はまさに旅人です。短時間の船旅にこそ、未知の現代アートへの接近への絶好のプロローグとなっています。

次に、作品鑑賞の場所が手じかに配置されていることです。多くの場合は徒歩だけで鑑賞できますし、移動手段が島内バスなどであってもわずかな時間でめざす作品に出会えます。地図を片手に非日常の風景を楽しむことが加われば、誰でもきっと何かに共感することができます。

3つ目は、開催地である地元のみなさんの歓迎ぶりが素晴らしいことです。「島がにぎやかになって嬉しいばかりです」が代表的な感想でしょう。島内を歩いていると、地元のみなさんが誰かれなく挨拶を交わしてくれます。

普段の生活の中では味わえない「体験」です。それでは視点を変えて、地域の活性化と文化振興について考えてみましょう。春の伊吹島と秋の粟島を巡っての地域振興にかかる寸評の第1は、過疎化する離島の将来を危ぶむ意識が「瀬戸芸祭大歓迎」・「島民総出でボランティアを」という行動に表れていることです。伊吹島の人口は650人余、粟島は300人余で、どちらも確実に人口減少が進んでいます。ここに期間限定を前提にしているとはいえ、島人口の何十倍という鑑賞者が押し寄せるのですから、島民と鑑賞者は非日常という空間を共有するのです。現代アートという媒介イベントを通して、一時的にせよ、島ににぎわいが出現したのです。第2は、期間限定のにぎわいを体験することになっているとはいえ、おらが島の歴史や伝統と生活事情の変遷を再発見していることは間違いありません。手描きの島マップの作成や路地の清掃などが行き届いていることで分かります。

瀬戸芸祭と地域の関係は、経済効果が何億円とか来島者が何倍もなったなどの指標だけで理解するのではなく、来島者が瀬戸内の美を発見したこと、地元の人たちが地元の歴史と風土を再認識したことと捉えるべきでしょう。

(つづく)

田村彰紀/月報359号(2014年6月号)

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その17~

詫間町粟島を訪ねました(2013年10月11日)。3連休の前の平日です。それでもおよそ100人を超える人たちと、須田港から快速艇(19トン)に乗船し、粟島港までの船旅を楽しみました。初めて粟島に上陸して、作品が集中している港周辺をゆっくりと丁寧に巡りました。

(1)旧粟島海員学校

作品鑑賞のまえに、粟島のシンボルである旧粟島海員学校校舎を訪れました。海に向かってエメラルドグリーンの洋式本館が偉容を誇っています。1階は、かつての船舶機器や船舶の模型などの海洋に関する資料が所狭しと展示されています。

インターネットによると、「粟島海員学校は明治30年(1897年)に我が国最初の海員養成校として開校した。現在残る校舎等は大正9年(1920年)の建築。本館は木造2階建で,2階を講堂にあてる。粟島のシンボル的な存在で,外壁の下見板や正面中央にみせたハーフティンバーの妻飾等に特徴がある」とされています。明治30年に開校ですが、当初は粟島村立の海員補修専門学校でした。その後、粟島航海学校と改称され、郡立から県立となり昭和15年には国立粟島商船学校という変遷をたどります。戦後になって、昭和22年に粟島海員養成所となり、昭和43年に愛媛県波方分校に分校が設置されたようです。この愛媛県波方分校は昭和49年に波方海員学校に昇格し、昭和62年には粟島海員学校が廃止となります。波方海員学校は、国立波方海上技術短期大学校として航海士や機関士の養成を担っているようです。この建物も瀬戸芸祭に溶け込んでいました。

(2)粟島ガイドマップ粟島を訪れたには初めてでした。粟島開発総合センター(総合案内所)の前に立てられた「粟島ガイドマップ」看板を眺めますと、粟島は3つの島を砂州で結ばれていることが分かりました。3つの島の主峰は、城ノ山222m、阿島山181m、紫谷山145mで、とくに城ノ山山頂からは360度の瀬戸内海パノラマが堪能できるようです。周囲は16.5kmの小さな島で、人口は300人余です。

なお、粟島の地区名が興味深く読めましたので、ここに並べておきます。城ノ山では、馬城(ウマキ)、潟(カタ)、溝(ミチ)、松本(マツモト)、牛の洲(ウスノス)、竹の浦(タケンダ?)、姫路(ヒメジ)です。阿島山では、西浜(ニシハマ)、東風浜(コチハマ)、江灘(エナダ)、永浜(ナガハマ)です。紫谷山では、椎の浦(チンノダ)、京ノ浜(キョウノハマ)、尾元(オモト)、塩谷(シオヤ)、尾(オ)、立髪(タテガミ)、不天(フテ)、水尻(ミッシリ)とあります。「粟島ガイドマップ」に表示されている地区名です。

(3)作品鑑賞

さて、粟島海員学校のあとは作品鑑賞です。作品126「SubtleIntimacy」は、採取した植物をガラス板にはさんで窯で焼成したもののようです。廃屋になった民家の3畳ばかりの和室ににじり込んでいくと、紙障子ではなくガラス障子が光っていました。ガラスには、植物の文様が押し花のように型どりされています。なかなか凝った作品でした。作品127「凪に漕ぎ出す」は、これも廃屋となった天井が高い古民家に、小さな白い布で作られた数百隻の小舟が空間に浮かんでいます。小さな小舟が集合されて、全体として大きな舟が出来上がっている作品です。発想が豊かな作品だと思います。

粟島海員学校の手前に、赤い鳥居の稲荷神社があります。そのお堂とみられるところに作品129「続粟島モノガタリ」がありました。老朽化したお堂に手を加えて、内部の壁を塗り替え、そこに白砂松林を描いたものです。若い女性作家がコツコツと壁を補修していたようで、作品を一目見て、芸術家のたまごさんが頑張っている様子がうかがえました。

 

(つづく)

田村彰紀/月報358号(2014年5月号)

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その16~

前回に引き続いて小豆島めぐりです。馬木エリアからよく揺れる島バスで、坂手港をめざしました。

(3)坂手港の岸壁に異様な姿の作品077「スター・アンガー」(ヤノベケンジ)は、その巨大さと輝く球体に龍が鎮座しているのには驚きました。この作品も、太陽を浴びてキラキラ輝く球体が何を意味しているのか、球体のあちらこちらから伸びた黒い棘(とげ)状の付加物は何を象徴しているのか分からずじまいです。制作者に聞いたとしても、「鑑賞者の趣くままに」の返答だけかもしれません。隣接する旧フェリー待合所の壁一面に、龍と棘のある球体などが描かれています。壁一面ですから、その迫力に驚嘆しました。墨絵タッチの単色で、さすがに絵画技術の高さを見せつけられましたが、その制作意図を一層知りたく思います。

作品078「ANGERfromtheBottom」(ビートたけし×ヤノベケンジ)は、話題の作品です。会期外であっても現地にはボランティア・スタッフが常駐しており、2時間おきに古井戸から化け物が顔を出します。地底から、どろどろという唸り音とも化け物の声ともつかない音響が出現の合図のようです。出現時間が近づくと、さすがに鑑賞者が増えて古井戸を取り囲みます。

ゆっくりとなぜか斧が刺さった銀色の頭が秋空に光ります。さらに焦(じ)らすような速度で、赤い眼と河童口が現れました。相変わらずどろどろという音響が響いて、黒いもので覆われた本体が見え、手も無い化け物が徐々に伸び上がるという演出です。どこまで伸び上がるのかというほど大きな化け物となり、鑑賞者たちから驚きの声が上がりました。

伸び上がったところで、河童口が開けられて数条の水が滴(したた)りはじめました。水量は多くもなく少なくもなく、強大な化け物にピッタリの分量ではないかと共感するほどです。これが何を意味するのか分からないまま、鑑賞者たちの口も開いていたようです。数十秒くらい水を滴らした後、ふたたび河童口を閉じて徐々に徐々に古井戸のなかに沈み込みます。どろどろの音響も低くなり、「ANGERfromtheBottom」パフォーマンスの終了です。この間およそ4~5分くらいでしょうか。この化け物の背後に見えるふたつの山を意識した場所設定のようです。

調べてみますと、洞雲山(361m)と碁石山(434.5m)は山岳霊場で、洞雲山が小豆島八十八か所第一番、碁石山が第二番の霊場だと知りました。作品ANGERfromtheBottom」はこのふたつの山から下りてきて、2時間おきに古井戸から世間を見渡すのでしょう。この化け物と霊場が関係するとしても、現代アートというよりは鑑賞者たちを脅かす昼間のイベントのひとつと思ったのだが如何でしょうか。

(4)小豆島で知り合った元気な若者からのメールを紹介しておきます(無断で・抄)。

香川県の旅とても楽しかったです!あと、昨日こえび隊のボランティアに参加しましたが、こえび隊の皆がボランティアに対してとても熱心で、瀬戸芸はボランティアサポーターによって支えられている部分の大きさなど感じました。私も参加できて良かったです~そして群馬に戻ったら中之条ビエンナーレのボランティアがまたさらに楽しみになりました(*^^*)。今日は直島から女木島、男木島へ行きました。ありがとうございます。あと2時間くらいで高松をでます。

誰にでも話しかけられるのも、芸術祭の魅力でしょう。

 

(つづく)

田村彰紀/月報357号(2014年4月号)

■ 迎春 2015年1月『住民と自治』&かがわ自治研「月報」をお届けします

■『住民の自治』の主な記事■

●特集●「自治体消滅」論に抗して

  • 新春対談 日本の未来をつくる自治の力
    ―流動する農山漁村と都市 生きている場でものを考える   内山 節×岡田知弘
  • 人口減少社会に向けた農村・都市・国土計画  中山 徹
  • 「地方創生」と維持可能な農村―足下から対抗軸を育てよう―  中嶋 信
  • 合併10年の浜松市のその後、および現状と課題  西原 純
  • 新年のごあいさつ  岡田知弘
  • 沖縄の民意「新基地ノー」 翁長氏圧勝  湧田 廣
  • 新潟県・上越市 岐路に立つ上越市の地域自治区・地域協議会  杉本敏宏
  • 海外で戦争をする国と秘密保護法―地方自治体とのかかわりにふれて  田中 隆
  • 書評 岡田正則・榊原秀訓・大田直史・豊島明子著
    現代新書『地方自治のしくみと法』 田村達久
  • 長崎県地域・自治体研究所を設立  川嵜一宏

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■ 「月報」の記事

  *2015(平成27)年あけましておめでとうございます

  *香川県政の諸課題をおおいに問う(下)  田村彰紀

  *『住民と自治』正月号のここを読む~「地方創生」と維持可能な農村

  *いいかげん地域学(その12幻の島を追う4=正月休み稿)  佐藤孝治

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その15~

人気の小豆島芸術祭(2013年10月)を楽しみました。島バスに揺られて、草壁~馬木~坂手と、のんびりと乗降の人になりました。

(1)瀬戸芸祭を存分に楽しむには「会期外」に出かけることをお薦めした。現代アートは、多くの場合、屋外展示がなされているので、会期外ならば雑踏のなかで垣間見るということはありません。さらに、現代アート特有のその「場」とアートとの融合をしっかりと見定めることができます。体験上から、会期外に出かけることの利点を整理しておくと次のとおりです。

①混雑が避けられて、対象作品を前後左右から存分に観賞できること。②あわよくば制作者に出会えるかもしれないこと。③地元の人たちと会話から作品鑑賞の参考意見が聞けること。④会期外でも鑑賞者がいない訳ではなく、気軽に作品感想を交換できること。

(2)内海地区の馬木エリアです。高松港から内海フェリーに乗船して、短時間の船旅であっても異境の地に運んでくれるという感傷にかられます。

作品082「Umakicamp」では、地元の人たちが秋期開催の準備をしていました。「この近くにある作品はどこですか」と問うと、「この建物が作品です。基礎はコンクリートで耐震性を考えています。屋根は軽くするために垂木のテント張りです。ひとりの人が造ったんですよ」とのことでした。休憩スポットであり、地元の人たちとの交流拠点のようです。

この作品は、どう考えても現代アートと呼ぶには似つかわしくありませんでした。建築物が部分的に芸術性を帯びていることはあるかもしれません。物の本では、建築が工学系に属されている日本は珍しいそうです。「日本において建築とは、まず近代化のために西洋から学ぶべき技術として捉えられ、芸術・美術と捉える意識は薄くなった。また濃尾地震や関東大震災で煉瓦造建築に大きな被害が生じたことから、日本独自の耐震構造技術への関心が高まった。こうして、建築はもっぱら工学的な学問と考えられる風潮が強まった。この意識は今日まで続いている」とする解説もあります。

しかしながら、この作品のどこに芸術性(意匠性)があるのか判然としませんでした。ガイドブックには、「このエリアに暮らす人たちと、ここを訪れた人々をつなぐ仕組みをつくり出す」とあります。

作品083「小豆島町コミュニティアートプロジェクト」は素晴らしい芸術作品です。芸術の創作に地元人が350人も関わったことです。それも8万個の「たれ瓶(弁当用の小型容器)」に10種類の醤油を注ぎ、見事な醤油グラデーションに仕上げています。芸術とは、芸技(わざ)の技術と解釈されることがあります。

たれ瓶に醤油を流し込むだけではなく、褐色の醤油を10段階に徐々に薄めています。それを8万個、統一した色彩制作するのですから技能、芸の技というほかありません。ガイドブックには、「アーティストをしのぐ作品をつくろう」のスローガンで取り組んだようです。

馬木エリアは「しょうゆ蔵」が連担する伝統的な地区で、「醤(ひしお)の郷」と呼ばれています。醤(ひしお)とは、塩を加えて発酵させて製造した調味料または食品です。小豆島での醤油の歴史は、かの太閤秀吉が大坂城を建造する際、小豆島から築城のための石材を切りだした時に遡ります。その時、紀州湯浅(醤油発祥の地)から醤油の製法を学び、古くからの生業であった製塩とあわせ持って醤油業に発展したものです。

小豆島は瀬戸内海の要所というべき位置を占めており、京都・大阪という大消費地にも近く、地域産業としての醤油業が大いに発展しました。これは現在にも引き継がれて「醤(ひしお)の郷」として名を馳せているわけです。

作品084「おおきな曲面のある小屋」は、新たに設置されたトイレです。曲面は醤油樽をイメージしていると駐車場係りの人から教えられました。屋根はモザイク状にガラス瓦といぶし瓦で葺いており、粗末な小屋を表現しているそうです。説明パネルには、英文でHutwithArtWallとあり、「芸術的な塀のある掘っ立て小屋」とでも訳せそうです。しかし、現代アート風ではあるが、少しおしゃれにデザインされた建築物に止まりそうです。

 

(つづく)

田村彰紀/月報356号(2014年3月号)

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その14~

(1)会期外であったので、男木島への来島者はわずか10人余でした(2013年9月)。京都・嵐山の桂川が氾濫し、渡月橋が沈下橋のような映像がテレビで流れていたときです。一方、台風一過の香川県は雲ひとつない秋空でした。穏やかな瀬戸内海をフェリー「めおん」が海を滑っていきます。途中、女木島に寄港して、さらに乗客が少なくなりました。

(2)男木島は、石積みと急坂迷路の島です。人口は179人(9月1日現在)、面積1.37平方km、インターネットでは「高松市の北7.5km、女木島の北1kmに浮かぶ島。平坦地が少なく、南西部の斜面に階段状に集落がつくられている。過疎化と高齢化が進行しており、空き家の増加が目立つが、昭和32年の映画『喜びも悲しみも幾歳月』の舞台にもなった美しい島。源平合戦で那須与一が射た扇が流れ着いたことから「おぎ(おおぎ)」という島名がつけられたともいう」と紹介されています。

(3)散策していると、地元の女性が噴霧器で水路を消毒しているのを見かけました。聞いてみると、「タネを消毒している」という。「タネ」とは、「谷」のことで、生活通路の排水溝のことのようです。田んぼがあれば、農道に沿う「用水路」でしょうが、男木島には水田がありません。「本土のほうでは井出(いで)と呼んでいるのを聞いたことがあります」とのことでした。男木島はコミ山(標高213m)ひとつにはり付いて集落が形成されているので、小さな排水溝でもいわゆる「谷すじ」なのでしょう。

(4)最初に目にしたのは、男木港のそばにある作品042「男木島の魂」です。屋根に日本語やアラビア語、中国語などのさまざまな言語文字を組み合わせた建築物で、屋根の文字が地面や水面に投影されると、時間が過ぎるにつれて変化しています。なかなか工夫された飽きない現代アートのひとつでしょう。
大井海水浴場近くの突堤に、作品054「歩く方舟」が不思議な景色を創っていました。旧約聖書のノアの方舟にヒントを得たとされていますが、古代の洪水から逃れる様子を造形したといいます。クラゲの笠に足が造形されて、屋島や五剣山の方向へ歩いているものです。何とも不思議な景色でした。

(5)映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地である男木島灯台まで30分歩きました。この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランク(灯塔は総御影石造り)の保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれているそうです。1895(明治28)年12月10日に石油灯で初点灯、1933(昭和8)年にガス灯化され、1961(昭和36)年には電化されました。1987(昭和62)年4月には無人化となりました。塔頂までの高さは12.4mで、海上保安庁第六管区海上保安本部の高松海上保安部が管轄しています。
芸術作品とか現代アートではないのですが、歴史的建造物・文化財としての価値ある男木島灯台になによりも感動を覚えました。

(6)会期外とあって、作品044「時の廊下」、作品052「漆の家」、作品051「記憶のボトル」、作品046「オンバ・ファクトリー」などは見ることができませんでした。男木島の作品で秀でていたのは、山頂に向かって重なり合う民家の甍と石積み、そして男木島灯台の雄姿であったと思います。

 

(つづく)

田村彰紀/月報355号(2014年2月号)

 

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その13~

瀬戸芸祭は盛況のうちに終了しました。新聞報道では、「11月まで開かれた瀬戸内国際芸術祭について、県などでつくる実行委員会と日本政策投資銀行は9日、経済波及効果は132億円だったとの試算結果を発表した。来場者の平均滞在日数や平均宿泊数は、2010年の前回より微増した。来場者数は、公表されている約107万人から重複分を調整して30万人とした」との分析でした。経済波及効果が132億円という数字が、いかほどの意味を持つのかは別にして、「瀬戸内の海と島々」の良さを再認識する機会であったことは間違いないでしょう。

では、前号に続いて瀬戸芸祭を歩いたので「試論」を記しておきます。

(1)観音寺・伊吹島

観音寺港から市営渡船で25分のところに浮かぶ「いりこ漁」で有名な島である。人口は650人余と減少傾向は続いている。

瀬戸芸祭の駐車場である有明浜無料駐車場を利用する。ここから観音寺港まで無料シャトルバスを利用したが、平日なのにバス停には列ができているのには驚いた。伊吹島内の道路事情は、道幅2メートルほどの急こう配の坂道で、たびたび地元のバイクと軽自動車が慣れた運転で通っていく。心臓破りの坂と書き込まれたルートを、汗拭き拭き登っていくと旧伊吹小学校だ。このあたりの標高は50メートルはあるだろう。多くの民家は小学校や伊吹八幡神社あたりに集中している。迷路のような路地を歩く。案内マップもほとんど役に立たないほどの迷路である。

(2)作品鑑賞と批評

旧伊吹小学校を会場に、3つの作品がある。作品135(沈まぬ船)は、漁具や生活用品を素材に、魚の群れや海の中をイメージした作品だ。いくもの教室を貫くように大掛かりな作品となっている。とくに、漁具の象徴である「浮き」を、およそ5万個を繋ぎ合わせているのは圧巻である。ワークショップならではの作品となっている。インスタレーションの典型の作品といえる。会期が終われば撤去されるだろう。

もうひとつの作品135(大岩オスカール)は、小学校の体育館をいっぱいに使ったドームの作品だ。閉ざされた入口を開けていただき中に入ると、マーカーだけで瀬戸内の風景を丹念に描いた360度パノラマに包まれたようだ。鑑賞者のひとりが「まるで海底から瀬戸内を見ているようだ」と感想を漏らしていた。これも大型作品だが、根気のいる仕事をご苦労様という感想である。

作品136(トイレの家)は、小学校グランドに作られている。解説チラシによると、男性用トイレ、女性用トイレ+多目的トイレ、倉庫の3つの棟から成り、ひとつの家型を描くことによって存在の力が持ち始めるという。夏至、冬至などの固有の時間には光のスリットがトイレの家を通り抜け、季節を知らせる構造に設計されている。各トイレをつなぐのは島の迷路を思わせる路地風である。制作者は、そもそもトイレは母屋から離れた周辺に位置づけられていたのを、各トイレが集合することによって核となっていることを理念として主張しているらしい。よく考え抜かれた設計になっているが、現代アートの範疇に属するかは疑問であろう。

(3)伊吹島民俗資料館

「無料ですよ、どうぞ見てください」の声に誘われる。昔の漁具や民具、文書類が保存展示されている。島民が長い年月をかけ収集した貴重な資料である。伊吹島の歴史年表、人口の推移、島の偉人の説明など島で暮らし人たちの共同性を垣間見た思いである。

伊吹島はかつて1000人以上の人口を擁していた。現在は650人余と減少しているが、面積が1キロ平方メートル程度であるので人口密度はきわめて高い。島の産業は伊吹イリコである。伊吹漁業協同組合の構成は、組合員数が400人(平成23年1月現在)というから島民まるごとの組合であろう。

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いりこの生産の推移は上表の通りで、昭和60年頃の最盛期からすれば半減している。人口減少~すなわち生産者の減少を加味すると資源の枯渇によるものではないようだ。また、組合の努力で、設備投資や販路開拓などが図られている。狭い島に意外なほどの居住数が保持出来ているのは、全国ブランドのいりこ生産性が高いからである。

(4)ふたたび作品批評

伊吹島民俗資料館から、芸術祭案内表示に従って路地を下る。作品138(夜想曲)は、住んでいないとみられる民家の部屋にある。東北の石巻の小学校にあったグランドピアノを、大屋根とか前屋根と呼ばれる「ふた」が3畳敷きの部屋に、弦を張った本体は6畳敷きの別の部屋に展示されている。東北大震災の津波を受けて、泥が堆積したままの状態である。

会期が終わるとこの作品はどうなるのでしょうか、と聞いてみた。「オランダに持ち帰ります」との返答であった。あとで調べてみると、制作者はオランダ在住で、美術家でありピアニストのようだ。海外で活躍する若き女性も~それも芸術分野で認められる日本人が予想外に多いことに感心する。

作品140(伊吹島レインボーハット)は、ユニークといえばユニークである。路地を上り、空が大きく広がったところに、樹木を利用してテントを支えるようにドームが造られている。テントをよく見ると、小枝を敷きつめ、布を張ったその上に土を載せている。足元を見ると、小さな水たまりがいくつも点在し、その中に鏡が沈められている。テントの間から差し込む光が、水たまりの鏡に反射すると、頭上のテントに虹が投影されるという。

あいにく曇天だったので虹は見られなかった。大掛かりな造形であるが、光の不思議を題材にしたテクニックな創造作品である。芸術の範囲はどこまで広がるのかと混乱させてくれる作品(?)だ。

作品141(伊吹しまづくりラボ)までの道は険しい。案内マップには<急坂注意!!>とある。標高50メートルくらいから、転げるように下ると海岸沿いの旧いりこ加工場が見えてくる。鉄骨スレート葺きの加工場の1階にはウレタンで作った伊吹島の模型がある。

伊吹漁協や旧伊吹小学校、公民館などの場所には小旗が立っていて、伊吹島の全体が俯瞰できる。情報を集めて、次々と島の歴史や現在を可視化するものであろう。2階にはカフェが用意されていて、瀬戸内海を眺めながら一休みできる。加工場が操業していた当時の作業員の小部屋は、〇〇研究室との表示がある。祭事や文化、いりこ歴史、建築など多方面から、島の未来を考える研究機関という位置づけのようだ。

建築物を芸術作品と評価する見解は、多分に的を射ている。建築芸術として、その土地でシンボルとなっていたりする。利用価値とともに、芸術的価値を認めない訳にはいかないだろう。ただ、旧いりこ加工場のラボ(実験室。研究室)は芸術的な取り組みではなく、作品141ではあるが、伊吹島の将来を研究する部署のようだ。その成果を楽しみにしたい。

(5)夏限定の開催である伊吹島

いわゆる「しまおこし」イベントである。すべての作品がインスタレーションであり、会期が終わればすべてが撤去される。芸術祭を通じて、伊吹島に新たな現代アートが根付くかどうかは、おそらく目的ではないだろう。このことは、瀬戸芸祭が瀬戸内の島々で開催されていることから、前提として共通する認識があるのではないだろうか。

(つづく)

田村彰紀/月報354号(2014年1月号)