瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その22 高見島 part2~

(2)作品鑑賞(つづき)

作品118「高見島へのオマージュ」は、瀬戸内を見下ろす高台にあって、城郭の石垣を思わせる土台を持つ中塚邸にインスタレーションがあります。島内ボランティアガイドの方にお聞きしたところ、中塚家は明治の頃に当主がアメリカ・シアトルに夢を馳せ、農場経営で財を成したようです。屋根の上には、西側に松竹梅をあしらった鬼瓦があり、東側には天女が舞う鬼瓦で、どっしりとした威厳ある建屋に驚きました。敷居をまたいで、狭く急な2階への階段を上ると、旧家らしい調度品が並んでいました。それ以上に関心を抱いたのは、乱雑に置かれた古本です。『新經濟學全集』『社會學』『戰争經濟の理論』『經濟學説史研究』が箱入りで並べられていました。それ以上に驚いたのは、アダム・スミスの『論富國』(岩波文庫、山内兵衛訳)があったことです。奥付けをみなかったのですが、書名が右からでしたので希少本であることは間違いないでしょう。中塚家は高見島でも相当の知識人であり、経営者であったようです。

瀬戸芸祭での島めぐりの楽しみは、むしろ島の歴史に触れることでしょう。高見島を有名にしたのは、除虫菊栽培の島であったことです。ふたたびボランティアガイドによると、昭和32年頃までに高見島全山で白い花が見事だったというお話でした。ネット検索では次のように紹介されています。原産国は地中海・中央アジアといわれ、セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)で発見されました。この花は古くから殺虫効果があることが知られており、現在もケニアをはじめ世界各地で殺虫剤の原料として栽培されています。殺虫成分ピレトリンは花の子房に多く含まれています。日本では弊社の創業者である和歌山県出身の上山英一郎(うえやまえいいちろう)が明治19年(1886)にアメリカのH.E.アモア氏から除虫菊の種子を贈られ、渦巻型の蚊取り線香を発明しました。上山英一郎は和歌山県や広島県・香川県を中心とした瀬戸内地方、北海道など日本の各地で除虫菊の栽培を奨励しました。

第二次世界大戦前は盛んに生産され、日本から世界中に輸出されて産業振興に貢献しました。しかし第二次大戦後はピレトリン類似化合物のピレスロイドが殺虫成分の主流となり産業としての除虫菊の栽培は現在では終了しています。(KINCHOホームページから)作品124「板持廃村再生プロジェクト」(板持廃村再生プロジェクト実行部隊)は、高見港からおよそ1.5㎞離れた板持地区にあります。板持地区は、かつて集落が形成されていましたが数年前に廃村となったところです。

フェリー時刻まで十分な余裕があるので、レンタサイクルで向かいました。瀬戸芸祭ガイドブックによると、「数年前に人口ゼロとなった板持集落跡を覆う雑草や竹林を除去し、廃村の姿を提示する」とあります。放置された数年間を想像すると、雑草や竹林の除去にたいへんな作業であったと分かります。しかし、廃屋と廃道をいまに顕わにすることが再生とはいえないのではないでしょうか。現代アート的な作品が他にあるものと探してみたのですが、廃屋を廃屋として見える化しただけのものでした。

(つづく)

田村彰紀/月報363号(2014年10月号)

瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その21 高見島~

多度津港から作品114「新なぎさ号・キュート・アップ作戦」に乗船して高見港まで25分の船旅です。フェリー新なぎさ号の船体一面にピンク色の花が咲いています。いたずら心から船体に触ってみました。花模様はペインティングではなく、ピンク色のシールを花デザインに切り抜いて貼り付けているようでした。いわば、プレカット・デザインです。

(1)高見島

平成22年国勢調査によると、人口は43人、31世帯とあります。その前の平成12年国勢調査では118人でしたから、10年間で75人の減少です。島内を循環する道路に沿って家並みがみえますが、どこもかしこも空き家ばかりのようです。案内所で現在の人口を聞くと、「35人くらいかな」ということでした。3年間で8人の減少です。ところが、多度津町ホームページでは、平成25年10月1日住民基本台帳人口は53人です。国勢調査と住民基本台帳との人口齟齬はよくある話ですが、やや極端な人口数字となっています。

高見島には集落が3つあって島の北端近くに板持・南部に浜・浦の集落があります。浜集落は島唯一の平坦地で、漁村集落特有の家と家の軒が接するような建て方です。その間を細い道が通っているのです。浦集落は一部海岸沿いに建っている家もあるが、大多数は山の急傾斜地に建っています。なかには伝統的な様式をそのまま残した大きな家屋もあるが、人が住んでいる家は少なく、ほとんどが無住になっているようです。

浦集落の海岸沿いに猫が多くいました。あまり多くいるので数を数えると見える範囲で約20匹でした。地元のおばさんは人間より猫の方がはるかに多いのだよと云っていました。急傾斜地の浦集落が、あまりにも人が住んでいる様子が無いので、帰ってから高見島の人口を調べると、2005年度の国勢調査では45世帯・73人と発表されていました。

高見島港が見えてくると、沿岸部や山頂への道路に沿って黄色い旗が林立して歓迎の意を表してくれています。秋空と瀬戸の海にマッチして、風にたなびくイエローフラッグは「高見島は元気ですよ」と叫んでいるようでした。

(2)作品鑑賞

作品115「SeaRoom」は高見港下船場のすぐのところにあります。海水入りのガラス瓶を人の背丈ほどに積み上げ、海に向かって馬帝状に作られています。制作者も作品ガイドもいないのが、現代アート展示の特徴であろうと思われますが、何を主張しているのか分かりかねます。

瀬戸芸祭スタッフに声をかけてみると、「さあ、何を表現しているのでしょうかね」といいつつ、「作家の人たちはそのつど言うことが変わりますからね」でした。また、制作途中で大きな風を受けて、上部の一部が崩れたことから、ガラス瓶の数段積み上げを諦めたようです。本来は、人の背丈をはるかに超えた作品になる予定でした。積み上げた高さに主張があるものとも思えず、瀬戸内の色が変幻自在する様子を楽しむことにも成功しているとは思えませんでした。

作品117「畏敬・よみがえる失われたかたち」は、3000枚の黄色い旗が空地一面になびいているものです。大量の旗は、多度津町のすべての園児、小中学生たちが作ったもので、黄色の下地に不器用な手形の青色が印象的です。高見港に翻っていた黄色旗は歓迎のあいさつをしています。ただ、島内に子どもたちの姿がみえないのが残念です。

(つづく)

田村彰紀/月報362号(2014年9月号)