瀬戸内国際芸術祭2013と地域政策に関する試論~その17~

詫間町粟島を訪ねました(2013年10月11日)。3連休の前の平日です。それでもおよそ100人を超える人たちと、須田港から快速艇(19トン)に乗船し、粟島港までの船旅を楽しみました。初めて粟島に上陸して、作品が集中している港周辺をゆっくりと丁寧に巡りました。

(1)旧粟島海員学校

作品鑑賞のまえに、粟島のシンボルである旧粟島海員学校校舎を訪れました。海に向かってエメラルドグリーンの洋式本館が偉容を誇っています。1階は、かつての船舶機器や船舶の模型などの海洋に関する資料が所狭しと展示されています。

インターネットによると、「粟島海員学校は明治30年(1897年)に我が国最初の海員養成校として開校した。現在残る校舎等は大正9年(1920年)の建築。本館は木造2階建で,2階を講堂にあてる。粟島のシンボル的な存在で,外壁の下見板や正面中央にみせたハーフティンバーの妻飾等に特徴がある」とされています。明治30年に開校ですが、当初は粟島村立の海員補修専門学校でした。その後、粟島航海学校と改称され、郡立から県立となり昭和15年には国立粟島商船学校という変遷をたどります。戦後になって、昭和22年に粟島海員養成所となり、昭和43年に愛媛県波方分校に分校が設置されたようです。この愛媛県波方分校は昭和49年に波方海員学校に昇格し、昭和62年には粟島海員学校が廃止となります。波方海員学校は、国立波方海上技術短期大学校として航海士や機関士の養成を担っているようです。この建物も瀬戸芸祭に溶け込んでいました。

(2)粟島ガイドマップ粟島を訪れたには初めてでした。粟島開発総合センター(総合案内所)の前に立てられた「粟島ガイドマップ」看板を眺めますと、粟島は3つの島を砂州で結ばれていることが分かりました。3つの島の主峰は、城ノ山222m、阿島山181m、紫谷山145mで、とくに城ノ山山頂からは360度の瀬戸内海パノラマが堪能できるようです。周囲は16.5kmの小さな島で、人口は300人余です。

なお、粟島の地区名が興味深く読めましたので、ここに並べておきます。城ノ山では、馬城(ウマキ)、潟(カタ)、溝(ミチ)、松本(マツモト)、牛の洲(ウスノス)、竹の浦(タケンダ?)、姫路(ヒメジ)です。阿島山では、西浜(ニシハマ)、東風浜(コチハマ)、江灘(エナダ)、永浜(ナガハマ)です。紫谷山では、椎の浦(チンノダ)、京ノ浜(キョウノハマ)、尾元(オモト)、塩谷(シオヤ)、尾(オ)、立髪(タテガミ)、不天(フテ)、水尻(ミッシリ)とあります。「粟島ガイドマップ」に表示されている地区名です。

(3)作品鑑賞

さて、粟島海員学校のあとは作品鑑賞です。作品126「SubtleIntimacy」は、採取した植物をガラス板にはさんで窯で焼成したもののようです。廃屋になった民家の3畳ばかりの和室ににじり込んでいくと、紙障子ではなくガラス障子が光っていました。ガラスには、植物の文様が押し花のように型どりされています。なかなか凝った作品でした。作品127「凪に漕ぎ出す」は、これも廃屋となった天井が高い古民家に、小さな白い布で作られた数百隻の小舟が空間に浮かんでいます。小さな小舟が集合されて、全体として大きな舟が出来上がっている作品です。発想が豊かな作品だと思います。

粟島海員学校の手前に、赤い鳥居の稲荷神社があります。そのお堂とみられるところに作品129「続粟島モノガタリ」がありました。老朽化したお堂に手を加えて、内部の壁を塗り替え、そこに白砂松林を描いたものです。若い女性作家がコツコツと壁を補修していたようで、作品を一目見て、芸術家のたまごさんが頑張っている様子がうかがえました。

 

(つづく)

田村彰紀/月報358号(2014年5月号)